zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

動物園と水族館

以前、本当に少しだけ触れた「動物園と水族館はなにが違うんだろう」という疑問について書いてみたいと思います。

7月ですでに暑い今日この頃、水族館に入る瞬間を想像してみてください。うっすら暗くてひんやり、快適ですよね。すこーし塩素に似たような清潔なにおいがして、イルカプールに近づかない限り魚臭いなんてこともありません。

さて、今度はこの暑い中動物園に行くことを考えましょう。炎天下にセミが鳴き、蒸し暑い中動物の獣臭さ、フンなんかのにおい…とても快適とは言えません。自分はこの時期にも動物園をうろうろしていますが、夕方には熱中症で頭が痛くなってきます。

同じような扱いをされるお出かけ場所なのに、なんでこんなに違うんでしょう。

最近の自分の興味からいくと、分かりやすい原因はその展示方法にあるようです。もう少し言うと、「観客と動物/お魚の仕切り方」にあるようです。

水族館の展示ってガラス張りですよね。そりゃ水を張ってるんだから当たり前ですけど。このガラスが、我々観客とお魚を完全に分断しています。だからにおいもしません。どうでしょう、当たり前ですか?

動物園の展示も考えてみましょう。まず、スタンダードな仕切り方はモートと呼ばれる溝をもうけるものです。観客から動物に注がれる視線を遮るものはなく、したがってにおいやなんかもバッチリただよってくるわけです。この観点では伝統的な檻やケージも同じです。

このような状況では、水族館のように敷地全体を屋根や壁で覆うことはありません。こんな展示を室内に閉じ込めてしまったら、においが充満して大変なことになります。それでは全てガラス張りにして室内で展示することができるかというと、動物という飼育対象の特性上難しいのでしょう。

それでも“科学が進歩”すればもしかしたら室内で飼育環境を完璧にコントロールした「動物園」が出来上がるかもしれません。でもそれはそのとき、動物園と呼べる代物ではなくなっているでしょう。

さてだんだんと問題の本質に近づいてきました。なぜ、水族館はガラス張りで良いのに、ガラス張りの動物園は「なんだかヘン」なんでしょう。

ここからは私の、さらに個人的な考えです。

最初に書いた通り、ガラス張りは観客と対象を「完璧に分断」します。これは、主客を分離するということであり、対象を科学的に観察する行為だと言えます。

人は、動物を観察することに抵抗を覚えます。動物は、魚よりもはるかに人間に近いからです。動物を科学の範疇で取り扱うことは、人間を科学的に取り扱うことに直結します。対象として観察し、事実を解明するという科学の営みは、ややもすれば「事実を解明する」という錦の御旗の前になにもかもが許されるという事態につながります。

いかに「科学的に有用」な科学実験でも、実験の対象として人間を扱うことにはきわめて細心の注意が必要ですし、そうあるべきですが、ひとたび動物が科学のために利用されてしまえば、いつ人間も同様の扱いをされるかわかりません。ですから我々は、自分の身を守るという直感から、動物を科学的に取り扱うこと、ここでいえばガラス張りの中に閉じ込めることに抵抗をおぼえるのです。

これが、動物園と水族館の違いでしょう。

すなわち、当たり前ですが、飼っているものの違いです。それはつまり、飼っているものに対しての感情移入の度合いの違いです。そこから展示方法の違いが出てきます。

さて、同じ動物園の中でも、色々な展示方法があります。昔ながらのケージ、モート、ランドスケープイマージョン、異種混合展示、またガラス張りなどなど…

これらの違いはなにを意味するのでしょうか。あるいはその歴史的な歩みはどのようなものでしょうか。
次回以降書いてゆきます。

動物園学の根底を探る

大変お久しぶりの更新となりました。前回更新から今までの間、自分の中で動物園観が大きく変わるきっかけがあり、考えがうまく文章になる気がしなかったためです。

まず前回までの内容から、ひとつの研究テーマを思いついていました。

それはすなわち、「動物園はなぜ存在してもよいのか」より科学的には、「動物園はいかにして社会から希求されるか」という問いを発端とする研究です。

私はこの疑問の中心である、「動物園が社会から希求されている状態」を「動物園に多くの人が訪れている状態」と同義と捉え(市民が動物園という財・サービスを需要しているということ)、動物園の入園者数を被説明変数とし、どのような変数でそれが説明されるのかというモデルを複数作成することで市民が求める動物園像が浮かび上がるのではないかと考えました。

その際、キーワードとなるコンセプトが「イメージの消費」です。観客は特段、動物園に「教育・科学・種の保存」などを求めているわけではなく、単純なイメージの消費、言ってしまえば動物が目の前で動いて楽しければいい、と期待して動物園を訪れているだけではないか、というのが私の主張の中心でした。

しかしながらどうも、この娯楽と科学の二元論ではすっきりと説明できないことが多い。
そのため全く異なる観点から、もういちど動物園を捉え直す試みが必要そうです。なによりも上記の議論はすでに自省的な動物園関係者(ごく一部ですが)が論じていることです。

そのひとつのアイディアが、動物園展示のあり方です。人々は動物園で様々な発見をします。動物園は純粋な気づきの場となります。展示の仕方が、この気づきに大きな影響を与えていると考えることはそれほど突飛なことではありません。

ではいかにしてそれを考えるか。次回以降の課題です。

中川志郎の「動物園学」を探る part2


さて続きです。日本の「動物園学」について何度か指摘していることですが、やはり中川氏の著作でも欠落している点について書きます。

中川氏の展開する議論の前提には、このような考え方があります。

まず一つには、全体論的な考え方。すなわち、「動物の種そのものの保存を尊重する」という考え方で、動物の種そのものが保存されるのであれば動物園で何頭かその種を閉じ込めておくことは正当化される、という考え方です。

もう一つには、動物の権利論的な考え方。すなわち、「動物には人間と同じように権利というものが存在する」ことを前提として、「動物の権利は動物園において十分に保障されている」という考え方です。つまり、動物園で動物はオリに閉じ込められてるけど、オリの中でそれなりにHAPPYだからオッケーだよね、という考え方です。

まずこの二つに対して、以下のような疑問が容易に考えられます。すなわち、「全体論を容認していいのか?」また「動物がオリの中でHAPPYだとどうして言えるのか?」という素朴な疑問です。換言するならば、そもそも人間が動物を保護することの意味は何なのか(保護してもいいのか)、動物の幸福など推し量れるものなのか(そもそも動物に幸福などあるのか)という疑問で、日本の「動物園学」はこの疑問には答えていません。

少しだけ付け加えておきますと、「保護してもいいのか?」というのは逆説的で面白い疑問です。すなわち、人間の手で動物を保護するということは自然に対し作為を加えるということです。果たしてこれが自然な行為と呼べるのか、生物学的な自然淘汰を考えたら保護などせず絶滅するに任せておくことの方が「自然」ではないか?というのはあながち的外れな疑問ではありません。

さて、しかしながら僕が真に問いたいのは、上記のようないわば哲学的な・倫理学的な問いではありません。

僕が問いたいのは、「人と動物の関わりはどうなっているのか」という問です。この問はさらに二つに分かれます。

一つには、個人と動物がどのように関わっているのか。すなわち、人は動物に何を求めて動物園に行くのか。動物の何を見ているのか。なぜ、動物を見るのか。

もう一つには、社会と動物園がどのように関わっているのか。社会は動物園に何を要請しているのか、動物園は社会の中でどのような位置づけにいるのか、動物園は社会に何を提供できるのか、して良いのか。

以上の問にも、日本の「動物園学」は答えてくれません。

それもそのはずです、中川氏のこの著作から始まる日本の「動物園学」は、社会科学の視点をまったく欠いています(最新の動物園学の著作には、動物園を巡る法規制について触れているものもありますが)。

彼らが学問とするのは、前回の記事に書いた通り、動物生態学のような動物学であり、獣医学のような飼育学であり、展示学なのです。

あとからおまけのように法規制の話や経営の話を付け加えますが、それらがおまけの域を出ることはなく、それ以外の社会科学の視点はまったくもって扱われないかトリビアルに扱われます。

これが、現在の日本の「動物園学」の現状であり、歴史的事実です。優秀な方々である現在の動物園経営者の皆さんが、これらの社会科学的な視点を抜きにこれからも動物園学を展開され続けるはずがありません。

なぜそう言えるのか?これらの視点を欠いたままの「動物園学」は非常に薄弱なものだからです。その詳細はまた次回以降の記事で。

中川志郎の「動物園学」を探る


今回は中川志郎氏の「動物園学ことはじめ」を取り上げます。

以前にも書いた日本の「動物園学」はこの本を代表とするような著作の考えを受け継いでいるように思われます。そのため今回はこちらの本を読むことで、そのルーツを探りながら批判をくわえていきたいと考えた次第です。

章立てとしては世界や日本の動物園の歴史を概観した後、動物園の役割及び動物園における実際の飼育学や展示学について具体例を交えながら説明し、最後の数ページで「動物園学」について筆者の考えを述べるというかたちになっています。

1970年代とかなり古めの本なのであまり期待(?)せずに読んだのですが、動物園関係者ならではの具体例が多く載っていて興味深く読むことができました。

当然自分の興味は最後の「動物園学」に関する章なので、そこを詳しく見ていきます。


まず中川氏の前提として、動物園が社会から求められる役割は近代に入ってから変わってきているというものがあります。前近代のメナジェリー的な動物園像から脱却し、動物園は見世物小屋から科学の場に移ったということです。

しかしながらこの科学の場というのは、単純に動物学や博物学の実験の場という意味ではなく、動物園そのものが持つ新しい科学であると述べています。

ここまでの主張はおおむね賛成できますが、ここからが少しよく分かりません。

すなわち、中川氏のいう動物園ならではの科学、つまり「動物園学」とも呼べるものは動物園に関わる様々な学問の総体であり、その構成要素は動物生態学や動物地理学などを含む「動物学」や動物の見せ方を科学する「野生動物展示学」、動物の飼育の仕方を論じる「野生動物飼育学」であると主張が続きます。


これって、新しい科学なんでしょうか。既存の科学の、自分たちに関わる部分だけを引っ張ってきて、それを全部足し合わせたら新しい科学の誕生だなんてそんなことあるものなんでしょうか。

このままでは動物園学は独自の理論を持たないのではないでしょうか。例えば仮に展示に関する理論を新たに発見したとして、それは動物展示学の進歩であり、「動物園学」の進歩ではないのでは?

まぁ学問とか科学の明確な定義はよくわからないのでこの指摘は深堀りしないにしても、中川氏やその考え方を引き継ぐ現代の日本の「動物園学」は思想的に大きな欠点があると思われます。そちらはまた記事を変えて。


日本の「動物園学」



先日触れた、日本で生成されつつある「動物園学」についてです。括弧付きなのは、欧米で発達している動物園学とは若干異なると思うからです。

現在の日本の「動物園学」をつくろうとしている運動の中心にいるのは日本の各動物園の園長さんたちです。現状日本の動物園の園長さんたちは多くが獣医さんですから、きわめて優秀な方々であることに間違いはありません。

ところが自分のように優秀でもなんでもない若造からすると、その園長さん方の崇高な志の中に理解できない部分が少なからずあり、自分の頭の悪さを嘆くばかりなのであります。

その理解できない部分というのを以下に挙げてゆきます。

まずは極めてトリビアルな点で恐縮ですが、新たな学問の旗揚げを志されておりながら、その「学問とは何か」についての考察を明らかにされていないという点です。僕もその辺は全く不勉強ですので「学問とはこういうものだ」というかなり自明かつ普遍的な見解があるのかもしれませんが、とにかく園長さん方が示してくださる学問の定義というのは著作を読む限り特定の国語辞典に依っています。
その定義は「知識や理論を体系立てること」といったようなことであり辞書的な説明としてはまったくもって十分なものであると思いますが、こういった見解や定義を画一的に盲信した上に築かれた「学問」がどれだけの意味を持つのか、僕にははかりかねます。


続いてこちらがメインの点ですが、「動物園学」においては無視されてしまった視点があるように思います。

動物園に関わる主体といったら、みなさんはどんな主体をあげるでしょうか。まずは観客ですね。飼育係の方がいます。獣医さんや繁殖センターの職員さんなどと合わせて、広く研究者としておきましょう。動物園を経営する人もいます。動物園を外から支える企業やNPOもありますね。
でも他にもきわめて大事な主体がいますね。そう、飼育されている動物です。

「動物園学」では上記のうち、動物の視点はまず無視されています。観客の視点も半分は無視されています。これらは残念ながら、先程とは違いトリビアルな問題とはいえないでしょう。

動物の視点とはなにか。まずは単純に動物倫理、動物の権利の視点です。この視点は「動物園学」の著作にはほとんど登場しません。著作の冒頭に登場する、「動物園を取り巻く学問分野」の図中に哲学や倫理学は一切含まれません。なぜか福祉学の項目中に、わずかな行数が割かれるのみです。僕も福祉学というのがどういう学問分野か恥ずかしながら存じませんが、まさか福祉学と倫理学を同一視されているということはないでしょうからなにかの勘違いでしょう。

また動物の視点という言葉には他にも、「動物を見る人間の視点」という意味も込められます。これは単純に展示学的な意味(観客から動物がどう見えるかを研究しより効果的な展示を希求するということ)ではありません。人間がその文化の中で動物とどう関わり、どのように動物を扱い、見つめ、動物を見ることでなにをしようとしてきたのかという文化的な側面です。動物を飼育するということがどんな意味を持ち、何をもって許容され、また動物園を訪れる観客はそこにどんな意義を見出しているのかという研究です。この視点はまったくもって無視されているように思います。

なぜこの問題がトリビアルでないのか?それは動物園がこれらの視点による疑問を投げかけられることを免れないからです。

僕達が動物園に応えてほしいのは、「飼育下のクマにタウリンが必要か否か」という問ではありません。

「なぜ動物園は、存在していいのか?」
「なぜ僕達は、動物園に行くのか?」
「なぜ動物園は、僕達の期待に応えてくれないのか?」

といった、きわめて根源的で、素朴な問です。このような問に答えてくれない・答えようとしない「動物園学」にどれほどの価値があるでしょうか。そんな理論体系しか持たない動物園に、僕達は通い続けるでしょうか。

繰り返しになりますが、動物園を取り巻く視点はもう少し多様なはずです。そのような視点を含まない議論は非常にテクニカルで、一般大衆や社会とは無縁のものとなるでしょう。

「動物園学」をかたちづくろうとされている方々は、きわめて「優秀」なはずです。生命倫理学やそれを含む哲学の重要性をご存知ないわけがありません。そのような視点を欠いた議論を、これからもちまちまと続けていかれるはずがありません。

これから彼らの著作において、上記のことがきちんと整理されて取り上げられ、議論が深まることは自明ですから、僕のような若輩者もなんとか議論についていけるよう、一生懸命に勉強してまいります。





学問分野としてのAnimal Studies


先日記事にしたBergerおよびBurtについて、人に発表する機会がありました。

その場で、Animal studiesなる学問分野が発達しつつあるということについて聞いたので備忘録的に書いておきます。まぁ「学問分野」とか「学問」という概念の明確な定義とかそういうのはよく分かってないんでアレですけど。

僕が今まで記事にしてきたことは、既存の学問としてはどんなものに分類されるでしょうか。

ぱっと思いつくのは哲学ですよね。動物の権利なんかにも結びついてくる話ですから、哲学の中の倫理学なんかに含まれてもまったくおかしくありません。Malamudなんかは動物園が動物を閉じ込めること(=confinement)を厳しく批判する論者です。まぁ動物園に限らず一般的に動物の権利論者ってなったら他にも大家がいっぱいおわすんでしょうが、ここでは控えます、恥ずかしながらきちんと勉強してませんので。でも動物園を取り巻く議論って、それだけじゃないですよね。


たとえば社会学。動物園は観光地として捉えられることも珍しくありません。代表例は旭山動物園社会学の中には観光社会学という分野があり、ここで用いられる理論をもって動物園を扱うこともできます。ブーアスティンの疑似イベント論など。

また動物園は入園料を取ります。おみやげも売っています。この意味で、観客は消費者でもあります。すると、動物園と大衆消費社会の関わりも無視できません。

さらに日本でもまだ公設公営の動物園がいくつもあります。これらの収支は、地方自治体の財政に影響を与えます(大した額ではないだろうけどさ)。公営の動物園が民営に切り替わる際、民間団体による入札を伴うオークションが行われます。加えて、動物園は公園の役割もありますから公共財と見なすこともできます。民営動物園では動物園の経営も大きな問題です。以上の4点から、動物園は経済学で捉える必要もありそうです。

これらの論点は、今まで日本で多少議論がなされてきた「動物園学」にはほとんど登場しません(動物園学の厳密な議論自体ほとんどないと思いますが)。
このいわゆる動物園学はかなりあいまいなもので、そのルーツも定義もよくわからず名称だけが独り歩きしているような気もしますが、動物園の果たすべき役割、社会的意義を模索するというようなものだと思われます。そのうえで、具体的な動物園経営に関わる様々な学術分野を網羅するものでしょう。
そしてこの動物園学が寄って立つ指針であり、また自らが導いた一定の結論が日本動物園水族館協会が定める「4つの役割」なのだと思います。思ってばっかだな。だってはっきりしないんだもん。

しかしながら、残念ではありますが、この「4つの役割」はあまり機能していません。その意味で、この役割を通じて動物園の意義を説明することはなかなか難しそうです。少なくとも日本の動物園では。

さらに、上記で触れたのは「日本の」動物園学ですが、これが自分が挙げたような哲学、社会学などの視点を含んでいるかと言われると怪しい気がします。動物園に動物がいる限り、また動物園が社会に内包されている限りこのような視点を伴う議論は免れないと個人的には考えています。



ですからこのような不満に応えるかたちで、あるいは応えようとして、従来のいわゆる動物園学とはまったく異なる学問分野ができつつあります。海外ではすでに概説書が出版されています(日本語訳もありますが)。その分野は、日本語でなんと呼称すればよいか分かりませんが、動物と人の関わりや動物園の意義などを包括しながら、上記のように既存の学問を横断するかたちで形成される可能性が多分にあります。


自分は(まったくもって不真面目ではありますが)経済学徒でありますから、動物園と経済学の関係について特に考察を深めていきたいと考えています。しかしながら同時に、社会学的、哲学的な観点を含む議論もきちんと整理していけたらなと思っております。


総じて上から目線の偉そうな文章ではありますが、今回はこの辺で。次回はMalamudのReading zoosを読み直します。



クサいのは、お嫌いですか?


ずーっとまじめな著作に関する記事が続いたので、今回は日常的な話をば。


「動物園、そんなに好きじゃないんだよね。」

夕方のカフェで、友人がこんなことをつぶやきました。彼は続けます。

「どっちかっていうと、水族館のがいいな。魚好きだし。」

気になった僕はいろいろと質問を投げかけてみました。

「動物園って水族館とちがって、動物のリアルな匂いがするじゃん。あと屋外だから夏暑くて冬寒いよね。そういう“リアルさ”みたいなのが嫌なの?」
「魚が好きなのか、じゃあイルカはどう?イルカショー観るのとか、どう?サメは?タコは?クラゲは?クリオネは?」
「水族館にも“ふれあいコーナー”みたいなのあるじゃん?あそこでナマコとか触るのは好きなの?」
などなど。

僕が彼だったら、さっきまで死んだ目をしながらコーヒーすすってたくせに動物園の話になった途端こんなに色々嬉々として聞いてくる人間にはドン引きしつつそいつのいないグループラインにこっそりそいつの悪口を書き込んでもおかしくないような勢いでしたが、彼は(そんなに)嫌な顔せずに答えてくれました。以下にまとめてみます。

・動物園の匂いなど、リアルな部分は確かに苦手。
・水族館で観られるような、“生態の展示”が好き。特に魚が好きなので、魚と相性の良い水草や背景のレイアウトを考えたりするのが好き。
・幼い頃から実際の海に触れる機会が多少あったので、ふれあいコーナーにはあまり興味がない。いろいろ触ったことあるから。
・クラゲ?別に…


ほー。なんだか二つの側面が彼の中で交錯しているように思います。

一つは彼の都会的な側面。「クサいのとか暑いのとかないわー、マヂ無理(笑)」というメンタル(伝わらないか…?)、これをシティ派メンタルと名づけましょう。シティ派の特徴は人間による管理を好むことです。空調しかり、その他環境しかり。シティ派にとっては動物やその見方すらコントロールされていることが快く感じられます。「ガラス張り、ガラス越し」っていうのはコントロールされた観察の仕方の象徴ですよね。

もう一つは「漢なら自然を直肌に感じやがれ、自然は思い通りにならんもんじゃい、がっはっは」というメンタル、これをネイチャー派メンタルと呼びましょう。ネイチャー派の特徴は自然との共生を好むことで、現代の日本社会においては本当の意味でのネイチャー派は絶滅寸前でしょう(山登りが好きな人はたくさんいますが、山に住み着いて山と共生している人は少ないだろう、ということです)。


彼の中ではこの二つの側面が互いに作用しながら自然に対する価値観が形成されているように思われます。小さい頃に海で色々な魚に触れて、ネイチャー派メンタルが培われた。つまり魚が好きになった。でもその中で自然の厳しさなんかを知っていって(海で溺れかけたり)、同時に都会的な普段の生活の快適さに気づいて、シティ派メンタルがネイチャー派メンタルを駆逐してしまった。でもネイチャー派メンタルは完全に駆逐されたわけではなくて、ささやかながら自然を楽しむ気持ちも残っている(ネイチャー派メンタルがゼロだったら、そもそも魚に興味もないですよね。展示に興味があるだけなら、たとえば京都の石庭の方が好きなはず)。

こう考えると、水族館ってシティ派メンタルを強く持つ人にも、ネイチャー派の人にも受け入れられる場所ですよね。翻って動物園はある程度ネイチャー派メンタルを持つ人の方が行きやすい。暑いし匂うし動物もちゃんと見られるか分からないけど、自然ってそういうもんだよねーと割り切れる人でないと、なかなか行きたがらないんじゃないかな。

こういう動物園の側面とどう向き合っていくかって話ですよね。僕は別に動物園の経営者でもないから、「みんな、動物園はこんなに楽しい場所だよ!もうクサくないよ!来てね!」というモチベーションは僕にはないんですわ。でも僕のやるべきことのひとつは動物園の存在意義を考えることですから、みんなにとってどんな動物園が必要とされているのか、あるいはそもそも必要されていないのかに興味はあります。動物園って、これからどうなっていくんだろう。

別れ際に、彼が面白いことを言ってくれました。

「動物園も水族館も年パス買って何回も行くのがよく分からないんだよね。何回行ってもいる動物は一緒じゃん」

たしかになぁ。でも展示内容が変わったら動物園や水族館に足を運ぶわけでもないだろうね、この子は。水族館の年パスを持ってる身としては、自分がなぜ何度も同じ水族館に行くのか、説明できなきゃなりませんね。


というわけで、動物園と水族館を取り巻く二つのメンタルを対比しながら書いて参りました。ここでなんかさらっと面白いオチでもつけられたら僕ももうちょい実生活で人気者になれるのかな。なれねーかな。

次回も頑張ります、それでは。