zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

中川志郎の「動物園学」を探る part2


さて続きです。日本の「動物園学」について何度か指摘していることですが、やはり中川氏の著作でも欠落している点について書きます。

中川氏の展開する議論の前提には、このような考え方があります。

まず一つには、全体論的な考え方。すなわち、「動物の種そのものの保存を尊重する」という考え方で、動物の種そのものが保存されるのであれば動物園で何頭かその種を閉じ込めておくことは正当化される、という考え方です。

もう一つには、動物の権利論的な考え方。すなわち、「動物には人間と同じように権利というものが存在する」ことを前提として、「動物の権利は動物園において十分に保障されている」という考え方です。つまり、動物園で動物はオリに閉じ込められてるけど、オリの中でそれなりにHAPPYだからオッケーだよね、という考え方です。

まずこの二つに対して、以下のような疑問が容易に考えられます。すなわち、「全体論を容認していいのか?」また「動物がオリの中でHAPPYだとどうして言えるのか?」という素朴な疑問です。換言するならば、そもそも人間が動物を保護することの意味は何なのか(保護してもいいのか)、動物の幸福など推し量れるものなのか(そもそも動物に幸福などあるのか)という疑問で、日本の「動物園学」はこの疑問には答えていません。

少しだけ付け加えておきますと、「保護してもいいのか?」というのは逆説的で面白い疑問です。すなわち、人間の手で動物を保護するということは自然に対し作為を加えるということです。果たしてこれが自然な行為と呼べるのか、生物学的な自然淘汰を考えたら保護などせず絶滅するに任せておくことの方が「自然」ではないか?というのはあながち的外れな疑問ではありません。

さて、しかしながら僕が真に問いたいのは、上記のようないわば哲学的な・倫理学的な問いではありません。

僕が問いたいのは、「人と動物の関わりはどうなっているのか」という問です。この問はさらに二つに分かれます。

一つには、個人と動物がどのように関わっているのか。すなわち、人は動物に何を求めて動物園に行くのか。動物の何を見ているのか。なぜ、動物を見るのか。

もう一つには、社会と動物園がどのように関わっているのか。社会は動物園に何を要請しているのか、動物園は社会の中でどのような位置づけにいるのか、動物園は社会に何を提供できるのか、して良いのか。

以上の問にも、日本の「動物園学」は答えてくれません。

それもそのはずです、中川氏のこの著作から始まる日本の「動物園学」は、社会科学の視点をまったく欠いています(最新の動物園学の著作には、動物園を巡る法規制について触れているものもありますが)。

彼らが学問とするのは、前回の記事に書いた通り、動物生態学のような動物学であり、獣医学のような飼育学であり、展示学なのです。

あとからおまけのように法規制の話や経営の話を付け加えますが、それらがおまけの域を出ることはなく、それ以外の社会科学の視点はまったくもって扱われないかトリビアルに扱われます。

これが、現在の日本の「動物園学」の現状であり、歴史的事実です。優秀な方々である現在の動物園経営者の皆さんが、これらの社会科学的な視点を抜きにこれからも動物園学を展開され続けるはずがありません。

なぜそう言えるのか?これらの視点を欠いたままの「動物園学」は非常に薄弱なものだからです。その詳細はまた次回以降の記事で。