zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

動物園の展示まとめ

 
さてさて、またもや大変久しぶりの投稿となってしまいました。どうも、論文に書きたいことが迷走するとブログにも何も書けなくなってしまうようです。何かを文章にして表しておくということのハードルが、自分の中ではまだまだ高いのでしょう。
 
前回まで、動物園の展示方法について書いてきました。ここでその問題意識についてまとめておきたいと思います。
 
はじめに結論から言うと、自分の問題意識は①ガラス張りの展示 ②ランドスケープ型の展示 にあると言えそうです。
 
ひとつずついきます。まずガラス張りに関して。展示の意図をさぐりますと(文献として明確にその意図を表したものがあったわけではありませんが文脈などから推察するに)、「より詳細に動物を観察してもらうため」というものがありそうです。これは前回にもふれたように、動物園が現代も生き残るために科学の場と変貌することを余儀なくされたという経緯を反映しているでしょう。ガラス張りなら目の前にライオンが来ようがトラが来ようが、思う存分細部まで観察することができますよね。そうやって科学的な観察の場を観客に提供している、というお題目で自らの存在意義を主張しているわけです。上野でもズーラシアでも、人気動物のガラスの前ではよくお客さんの歓声が聞かれて、大変人気です。
 
しかしながら、本当にガラス張りは「詳細な観察」に向いた仕掛けでしょうか?
 
観察といえば、目だけで行うものではありません。においをかぐこと、息遣いを聞くこと、直接触れること、すべてが観察と言えるはずです。特に、動物の専門家でもなんでもない一般の観客を相手にしているわけですから、いろいろな側面から動物を観察したくさんの発見をしてもらうこと、そのための場を提供することが本当の意味での動物園の存在意義と言えるでしょう。
それなのに、ガラス張りはこれら視覚以外のすべての感覚をシャットアウトしてしまいます。このような仕切り方、観客と動物のふれあい方は果たして健全なものでしょうか。
 
視覚に頼った展示がもっと進化することになれば、それはもはや博物館となるでしょう。トラの牙の大きさを知りたいなら、トラの剥製の頭部をガラスに閉じ込めてわかりやすく展示すれば良いのです。もしくはそれはもはや図鑑となるでしょう。トラの顔を精細なカメラで写真に収めて原寸大で印刷すれば良いのです。なにも動物園に行く必要はありません。
 
動物の動きを見せるのが動物園の役割だという主張があるかもしれません。たしかに目の前で動物が動くさまは博物館や図鑑ではなかなか再現できないものでしょうし、「本物」の動物ということであれば映像での再現も及びません。
 
しかしながらそこにガラス張りの必然性がないことは明らかです。たとえば多摩動物公園旭山動物園のヒョウ類などの展示を見れば、ケージ越しにも彼らのしなやかでダイナミックな動きが迫力をもって伝わってきます。ケージは視界を妨げるという意見もあるかもしれませんがそもそも、何の妨げもなく動物の姿だけが見えるなどということが自然界でそうそう起こりうる現象なのでしょうか。
 
そもそも、ガラス張りが動物園に本格的に導入されたのは旭山動物園による行動展示が全国的に有名になってからだと個人的に考えています。むろんそれより以前に、ガラス張りの展示自体は上野のパンダ舎や多摩のコアラ舎に取り入れられてはいますが、日本平動物園などに見られるように旭山動物園に影響されてガラス張りの展示を取り入れた動物園は少なくないでしょう。旭山といえばすぐに思いつくのはホッキョクグマの展示で、半球状のガラスに下から入り込むことによってアザラシを捕獲するホッキョクグマの習性を目の当たりにするといった趣旨のものです。ここではあくまでも、「動物の行動を引き出す」という目的のもとガラス張りが手段として用いられています。しかしながらこの手法を日本の動物園が取り入れる際に、行動展示という目的はさておいて、たんなるスぺクタルや見やすさを求めたという下心はなかったと、果たして言い切れるでしょうか。動物園経営者は、本当に科学的な教育を提供するためにガラスを提供しているのでしょうか。そしてそれは、成功しているのでしょうか。
 
 
やや長くなったので続きは次回以降にします。げろげろ。