zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

動物観学会に行ってきました

教授に誘って頂いて、2015年の動物観研究会のカンファレンスにお邪魔してきました。

会は二部構成で、後半の総合討論には旭山の坂東園長をはじめとしてデザイナーの若生さん、小説家の川端裕人さんらの議論を千葉市動物公園の石田おさむさんが司会するというなんとも豪華な場でした。
 
このような場で、文献をあたっているだけではなかなかわからなかったことがいくつも見えてきました。
 
まず一つ目。ズーラシアの村田園長が提唱する動物園学と日本の動物園における展示の変遷にはあまり関係がなさそうだということ。てっきり動物園学の推進者と若生さんらはかなり親交があるのかと思っていましたがご本人から伺った限りそこまでではなさそうです。
二つ目。これは有名なことかもしれませんが、動物園水族館協会も一枚岩ではないということ。先のイルカ漁問題を巡って協会内も錯綜したようで、このへんは意外でした。
三つ目。石田さんは人文科学のご出身、中でも哲学畑だそうで、抽象的な議論が非常にお得意でいらっしゃること。動物園長といえば獣医だと思い込んでおりました。混み入った議論を見事にリードされていて、素晴らしい方だなと感じました。
 
さて以上が主に人間関係というか所感ですが、ここから実際の議論の内容に触れていきたいと思います。
 
今回の総合討論では大きな収穫がありました。
まず、生息環境展示と行動展示はそもそも方向性が違うということ。一見、この2つの展示のゴールは同じに見えるから厄介ですが、実は違うというのが僕の考えです。この辺は若生さんと坂東さん、お二人の動物観を考えてみれば分かるかと思います。
 
まず若生さんのゴールはどこまでいっても「自然保護」です。自然に対する畏敬の念を養うと銘打ってはいますが、そのような気持ちを養うことによって最終的には自然保護、環境保全という目的を達成しようとしています。これを自然保護的な動物観とでも呼びましょうか。
 
これに対し、坂東さんのゴールは動物の素晴らしさを感じてもらうこと、それだけです。彼に根付いているのはいわゆる共生的な動物観です。つまり、生も死も動物とともにし、伴侶や観察対象としてではなく、生活の一部として動物と関わっていくといういわば前近代的な動物観です。そこには環境を保護しようだとか動物を守ろうだといった邪推は全く含まれていません。
 
このような考えの根拠として、二つあげたいと思います。まず、彼が猟銃免許を所持し毎年北海道の鹿を駆除していること。普通であれば動物の命を預かる園長という人間が動物を殺しているということには抵抗や批判があるはずです(実際批判されることもあるそうです)。しかしながら彼の中では彼の肩書と行為は矛盾していない。動物園園長という人間だからこそ動物と真摯に対等に向き合うためにその死に直面し共生する。これは彼にとって当たり前のことです。もう一つは旭山動物園で飼育動物が亡くなった場合はその事実を逐一園内に告知すること。このようなかたちで、動物園全体で、動物の死とも向き合うという誠実な姿勢を体現しているわけです。
 
一見、動物園の商業的側面を否定しているという点で共通しているように見えるお二人ですが、これが二人共通の着地点かと言われるとそうではない。そこはあくまで二人が避けている点であって、目指す点はそれぞれ違うわけです。ここについて川端さんは「二人は異なる舞台を作っている」と表現されておりなるほどなと感じましたが、舞台で表現したいこともまた異なっていると僕は考えるわけです。
 
やはり動物園展示は一枚岩ではありませんでした。誰も彼もが、環境保護や種の保存を最後のゴールとしているわけではない。これが今回の大きな収穫です。
 
一つ面白いのは、彼ら二人のバックグラウンドに着目してみることです。かたやデザイナーで、世界を見てきた造園家。一方は園長で、北海道の自然に溶け込んでいる。このような観点から論点を掘り起こすのも面白いかもしれません。
 
しかしながら坂東園長はなんというか、カッコよかった。いかにも今、旭山の大自然から出てきたというような風貌で、振る舞いにある種の涼しさを感じました。またひとたび話し始めると、抑制の効いた話し方ながら情熱的で、その主張は論理的でぶれることがない。動物園長として、また人間としてすっかり尊敬してしまいました。
 
そろそろ論文を本格的に書かなければなりません。これまでの内容をしっかりとまとめたいと思います。