zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

見るということ(後半)

さてさて後半です。

おそらく筆者の目の前にある問題は、「なぜ我々は動物園で動物にがっかりするのか」ということなんだろうと思う。

なんとなく共感できるような問ですよね。たとえばチーター。僕の記憶の中では、彼らはものすごい勢いでサバンナを駆け抜ける。すばしこいインパラを追いかけ、飛びかかってねじ伏せ、喉元に食らいついて息の根を止める。俊敏さと獰猛さを併せ持つハンターだ。ところが動物園では(実は動物園でチーターを見た記憶ってあんまりない。いまならズーラシアとかで見られるけど)たいがいぼけっとしてる。ライオンでもトラでもそうだけど、姿が見えてしっぽでも振ってりゃいい方だ。なんでだろう。

筆者はこの原因を、動物園に動物はいないからだと結論付ける。檻の中にいるのは実は動物ではなく、私たち人間が周辺、どこか遠くへと追いやってしまった「何か」に過ぎないのだと。動物じゃないなら、動物みたいに動かなくて当然だね。

ん?見る、そして追いやる…?はたと気づきます。

前半に書いた通り、もともと動物と人間は一つのものでした。自分で自分を見ることはできませんから、人間が動物を「見よう」と思ったら自分から動物という存在を引き離す必要があります。これってまさに、主体と客体を分けるっていう近代科学の営みじゃないですか。

動物園って動物を見る場所ですよね。ってなると動物園で動物を見る、動物園という場所を作ることそのものが、人間と動物を引き離している根拠となり得るわけですわ。これを筆者は動物の周縁化とおっしゃってるんですね。

もう一つ、動物のイメージの問題があります。自分の問題意識と照らし合わせるとこっちの方が大切なはず。

生まれた時から身近に馬がいるってひとはあんまりいませんよね。牧場主の子供か、馬主の子供かな。馬主っていい響き。でも僕らの大半は、馬と言われればかなりたくさんのイメージを頭に浮かべることができる。なんでかなって考えたら、子供のころ遊んだおもちゃ、観たテレビ(ダ○ウィンが来るとか来ないとかいう番組とかね)、ディズニーで王子様が乗ってる白馬なんかが身の回りに溢れてるわけですよ。

これらイメージはいわば本物の動物の複製品のようなもので、人々はこのイメージのオリジナルを確認するために動物園に行くんですね。そんで前述の通りがっかりするという。

筆者は明記していないけど、僕はこれをイメージの消費のようなものだと考えてます。僕が考えてるってか、もっと偉い人が散々考えてることだと思いますけども。消費活動の対象としての動物、それを提供する場としての動物園。

このイメージについてもう少し考えてみたい。特に僕が考えていかなくてはならないのはディズニーが作り出すイメージについてなんです。


というわけで後半はここまで。まとめと考察は後の記事にゆずります。ちゃんちゃん。