zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

日本の「動物園学」



先日触れた、日本で生成されつつある「動物園学」についてです。括弧付きなのは、欧米で発達している動物園学とは若干異なると思うからです。

現在の日本の「動物園学」をつくろうとしている運動の中心にいるのは日本の各動物園の園長さんたちです。現状日本の動物園の園長さんたちは多くが獣医さんですから、きわめて優秀な方々であることに間違いはありません。

ところが自分のように優秀でもなんでもない若造からすると、その園長さん方の崇高な志の中に理解できない部分が少なからずあり、自分の頭の悪さを嘆くばかりなのであります。

その理解できない部分というのを以下に挙げてゆきます。

まずは極めてトリビアルな点で恐縮ですが、新たな学問の旗揚げを志されておりながら、その「学問とは何か」についての考察を明らかにされていないという点です。僕もその辺は全く不勉強ですので「学問とはこういうものだ」というかなり自明かつ普遍的な見解があるのかもしれませんが、とにかく園長さん方が示してくださる学問の定義というのは著作を読む限り特定の国語辞典に依っています。
その定義は「知識や理論を体系立てること」といったようなことであり辞書的な説明としてはまったくもって十分なものであると思いますが、こういった見解や定義を画一的に盲信した上に築かれた「学問」がどれだけの意味を持つのか、僕にははかりかねます。


続いてこちらがメインの点ですが、「動物園学」においては無視されてしまった視点があるように思います。

動物園に関わる主体といったら、みなさんはどんな主体をあげるでしょうか。まずは観客ですね。飼育係の方がいます。獣医さんや繁殖センターの職員さんなどと合わせて、広く研究者としておきましょう。動物園を経営する人もいます。動物園を外から支える企業やNPOもありますね。
でも他にもきわめて大事な主体がいますね。そう、飼育されている動物です。

「動物園学」では上記のうち、動物の視点はまず無視されています。観客の視点も半分は無視されています。これらは残念ながら、先程とは違いトリビアルな問題とはいえないでしょう。

動物の視点とはなにか。まずは単純に動物倫理、動物の権利の視点です。この視点は「動物園学」の著作にはほとんど登場しません。著作の冒頭に登場する、「動物園を取り巻く学問分野」の図中に哲学や倫理学は一切含まれません。なぜか福祉学の項目中に、わずかな行数が割かれるのみです。僕も福祉学というのがどういう学問分野か恥ずかしながら存じませんが、まさか福祉学と倫理学を同一視されているということはないでしょうからなにかの勘違いでしょう。

また動物の視点という言葉には他にも、「動物を見る人間の視点」という意味も込められます。これは単純に展示学的な意味(観客から動物がどう見えるかを研究しより効果的な展示を希求するということ)ではありません。人間がその文化の中で動物とどう関わり、どのように動物を扱い、見つめ、動物を見ることでなにをしようとしてきたのかという文化的な側面です。動物を飼育するということがどんな意味を持ち、何をもって許容され、また動物園を訪れる観客はそこにどんな意義を見出しているのかという研究です。この視点はまったくもって無視されているように思います。

なぜこの問題がトリビアルでないのか?それは動物園がこれらの視点による疑問を投げかけられることを免れないからです。

僕達が動物園に応えてほしいのは、「飼育下のクマにタウリンが必要か否か」という問ではありません。

「なぜ動物園は、存在していいのか?」
「なぜ僕達は、動物園に行くのか?」
「なぜ動物園は、僕達の期待に応えてくれないのか?」

といった、きわめて根源的で、素朴な問です。このような問に答えてくれない・答えようとしない「動物園学」にどれほどの価値があるでしょうか。そんな理論体系しか持たない動物園に、僕達は通い続けるでしょうか。

繰り返しになりますが、動物園を取り巻く視点はもう少し多様なはずです。そのような視点を含まない議論は非常にテクニカルで、一般大衆や社会とは無縁のものとなるでしょう。

「動物園学」をかたちづくろうとされている方々は、きわめて「優秀」なはずです。生命倫理学やそれを含む哲学の重要性をご存知ないわけがありません。そのような視点を欠いた議論を、これからもちまちまと続けていかれるはずがありません。

これから彼らの著作において、上記のことがきちんと整理されて取り上げられ、議論が深まることは自明ですから、僕のような若輩者もなんとか議論についていけるよう、一生懸命に勉強してまいります。