zshio3721の日記

日本の動物園について勉強しています。アカデミックな価値は皆無です。

千葉市動物公園に行きました

超絶久々に動物園の記事を書きます。このブログ、もはや何ブログでしたっけ?

みたいな疑問が湧き始めたから書くということでもなく、実はこれまでも、動物園を訪れても記事にしないことがちょくちょくあったんですよ。京都市動物園や、東山動物園、天王寺動物園王子動物園江戸川区自然公園なんかがそれに当たります。多いな。旭山動物園すら書いてないわけですし。まあ、旭山は、ブログを始めるより先に訪園したのでアレなんですけどね。あと到津の森公園。ここは旭山と並んで素晴らしい動物園なので、いつか記事にしたいんですけど。

ただ、千葉市動物公園については書きたかった。その理由は、必ずしもポジティブなものではありません。

まず、千葉市動物公園と言えば誰もが思い浮かべるのが2014年のリスタート構想でしょう、というのは動物園ジョークでありまして、本当に千葉市動物公園において有名なのは、というか、有名だったのは、レッサーパンダ風太です。

https://www.yomiuri.co.jp/national/20200705-OYT1T50000/

2005年のことです。ネットサーフィンベースの情報ですけど、今は彼の子供であるクウタが立ち上がっているらしいです。

で、まぁ、動物園においてはたまにあることですが、こういうスター性のある個体が動物園の人気を一時押し上げました。こうした例は、古くは天王寺動物園チンパンジー、リタに求めることができます。

それで、これもよくあることですが、その後すぐにブームは去り、来園者は減少の一途をたどります。そして園は岐路に立たされるわけです。

少し話はそれますが、この頃、つまり2006~2007年にかけては旭山動物園が年間来園者数300万人超えという、奇跡のブームを叩き出します。

https://yorimichi.airdo.jp/asahiyama_kakijiro

上記は全然関係ない旭山動物園のインタビューなんですけど、板東園長があまりにもかっこよくて貼ってしまった。

さらにもう一つ、公設動物園界には(そんな“界”があるのかという疑問はさておき)、この頃ムーブメントがあります。指定管理者制度の導入です。2003年の地方自治法改正以降、上野、葛西を筆頭に同制度が導入されはじめました。

ここで思い出していただきたいのが、千葉市動物公園は都市近郊の大型動物園にしては珍しく公設”公営“であることです。この時期、多くの公設動物園が地方自治体の予算制約を背景に民間に下った一方で、千葉市動物公園は公営のステータスを維持する選択をしました。この背景はよく分かりませんが、風太が一役買っていたとしてもおかしくないでしょう。つまり、千葉市動物公園は「稼げる園」だから大丈夫、ということです。

しかしながら現実、レッサーパンダブームは永続きしませんでした。後述する「千葉市動物公園リスタート計画」の構想概要によれば、来園者数はピークの年間約88万人(2006年)から、同63万人(2012年)と約3割減。

さてこの頃、時を同じくして、千葉市動物公園と同じく公営の旭山がヒットします。旭山は、北海道という土地柄も存分に生かした「行動展示」という確固たるオリジナリティある園ですから、千葉市動物公園にはおいそれと真似できませんでした。かといって、今さら指定管理者を導入しようにも口実がいまいち立たない。旭山にも、上野にもなれないのが千葉市動物公園の苦悩だったと思います。この辺は筆者の邪推が多分に入っていますが、中らずも遠からずだと思います。

そうした苦悩の2000年代を経て、辿り着いたのが石田おさむ氏を園長に迎え入れる決意と、冒頭のリスタート構想でした。

https://www.city.chiba.jp/toshi/koenryokuchi/dobutsukoen/restartkoso.html

千葉市のHPには平成29年版しかありませんが、初版(2014年、和暦西暦ごっちゃですいません)はpdfで簡単に見つかります。

当時私がもっとも感銘を受けたのは、園内の遊園地を廃して駐車場にする計画です。幾度かの検討会を経て、遊園地は「教育の場」である動物園に相応しくないとして廃園が決定されます。地元住民の反対も相応にあったと推察されるもとで、勇気ある決断だったのではないでしょうか。記憶が正しければ、これは上野動物園が遊園地を廃するよりも早かったはずです。石田氏のもと、こうした「まともな」決断が着々となされていく様子は、日本の動物園界の新たな夜明けを感じさせました。

ところが、ということで、ここまでの話をひっくり返させていただきますが、今回の訪園は、大変失礼ながら、やや失望的であったと言うほかありません。幾つか挙げさせていただきます。

まず、2020年夏、つまり完成したばかりのチーター・ハイエナ舎です。アニマルウェルフェア、ないしは生息環境展示の観点から、周囲の遊歩道整備も含め、新しい風を感じました。

一方で、どこかで見たことのある展示なのです。それは、横浜動物園ズーラシア。同展示は、酷似していると言っていいほどでした。横に長い全体観、展示へのアプローチ、植生、金網とガラス張りの併用。「実はハイエナは、ディズニーが作り上げたずる賢いイメージとはかけ離れていて、家族想いの動物で」ほにゃほにゃという説明。

似ているから悪いということもありませんが、公営を貫き、民間企業から園長(東芝出身、鏑木一誠氏)を迎えて1年以上経つ、独自性溢れて然るべきはずの園が、どうして確固たるオリジナリティを確立していないのでしょうか。

園内で執り行われるビアフェス的なものも、のぼりやら何やらのデザインに申し訳程度に動物の前肢があしらわれているだけで、これが「教育、種の保全、調査研究、レクリエーション」の何にあたるというのでしょうか。あと、普通に、イベントとしてありふれすぎてませんか。ビアフェスなんて、そこらの百貨店の屋上でやってますけど。

という、ちょっと残念なお気持ちでしょんぼりしていたところに、「ふれあいの里」なるゾーンに足を踏み入れて、びっくりしてしまいました。遊園地によくある遊具が、そっくりそのまま置かれているのです。というか、これ、廃園したときに、処分料もったいないから置いたんちゃうんか、と思わせるような、平成真っ盛りに作られましたみたいな、乗って遊ぶタイプの動物遊具が、親子を乗せてゾーンのあちこちを動き回ってるわけです。まあ、微笑ましいからいいんですけど。

ということで、今一信念を貫けない千葉市動物公園に日本の行政の一端を垣間見ました、とまで言うと超性格悪いっぽいので、いちおうフォローさせていただきますと、まだまだ人は、というか日本人は、動物園に行くんだと思います。つまり、例えば旭山は、1990年代に、飼育動物からエキノコックスが出てしまうという事件を二度もやらかして、本当の本当に廃園の危機に迫られて今のモデルを構築したのです。千葉市動物公園を始め、他の動物園には、そこまでの危機感はないでしょう。ないです。なんだかんだ、みんな動物園に来てくれるから、なんとかやっていけてるね、よかったねっていうのが、15年近く続いてるんです。

この辺、まぁいいんですけど、何とかもっと面白いことにならないですかね。という夢を見ながら、本稿は終了です。ありがとうございました。

「いのちへの礼儀」を読みました

読んだんです。

文芸評論家・社会運動家生田武志氏の著書です(以下、本書)。とにかく論点が豊富で、「人間と動物の関係に関することはおよそ全て調べて書いてやろう」という気概が見えるほどです。自分としてもメンションしたい部分が多くあり、かなり時間をかけないと批判的に体系化しきれません。本書は19年2月に発刊されており、本書に含まれる情報が比較的新しいことも魅力の一つかと思っているので、新鮮さを失わないうちにブログに取り上げる目的で、以下、ブレットスタイルでファクトを整理し、可能な範囲でコメントする方式を取りたいと思います。

 

・始めに、自分の備忘録のために、本書に関するインタビュー記事のリンクを貼っておきます。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/book/kakuhito/list/CK2019051902000194.html

・本書は、大まかには、前後編+「間奏」の三部構成。副題「国家・資本・家族の変容と動物たち」については、ほとんど前編で触れられている。つまり、本書のエッセンスはほとんど前編で語り切られている(と私は感じた)ので、忙しい方は前編だけでもご覧になってみては。

・イルカ/クジラ漁問題について、過去の自分の認識を改めなくてはならなかった箇所があるので、自分の記事を引用しつつ触れます。

 

zshio3721.hatenablog.com

 ・この記事での僕の結論は、言ってしまえば「和歌山のクジラ漁については、単なる漁ではなく、地場の人々の生活に深く根差した文化であるので、外国の反捕鯨団体がとやかく言う義理はないだろう」というものでした(それが明示的にわかる文章となっているわけではないけど…)。

・あ、もう一つ、「イルカ/クジラが人間と同じように痛みを感じるという主張の根拠や、イルカ/クジラが痛みを感じることと漁をやめることの論理的な繋がりについては、WAZA(世界動物園水族館協会)に議論の準備はないだろう」というのも、結論というか、ぼくの主張でした。

・ところが本書では…とそれに対する反論を書く前に、恥ずかしながら「太地町の漁がなぜとくに残酷とされたのか」についてはっきりと知らなかったので、本書を参考に簡単に書いておきます。一言でいうと、「イルカ/クジラを浅瀬に追い込んで岩や海岸に激突させる『追い込み漁』を行っているから」です。この漁法では、岩に激突したイルカが45分以上も苦しむ例もあったとのこと。この点、C・W・ニコルによれば、通常のアザラシ、クジラ、セイウチ漁では、銛で獲物を捕らえた後、頭を銛で突くなどして短時間で絶命させるのが常識とされています。なお、1972年から始まったこの追い込み漁については、太地町の漁協組合も反省し、2008年1月以降、獲物の延髄をナイフで切断する方法に改めたことで、捕殺時間を95%程度、削減したとのこと。

・さて、自分の認識を改めるところに戻ります。まず、クジラ漁は文化だから他人にとやかく言われる筋合いはないという主張に関しては、WAZAも(というか、本書ではシーシェパード)百も承知であるという点です。シンガーやレーガンを起点に1970年代から議論が展開されてきた、「動物の福祉」「動物の解放」についての世界的な潮流に鑑みれば、人類がここ数千年の間に確立してきた肉食文化や毛皮等を用いた装飾の文化そのものがチャレンジを受けているわけであって、その文脈でクジラ漁も批判を受けているのはむしろ当然だということ。事実、「動物の福祉・解放」運動の影響を受けて、世界中で多くの人が各種のベジタリアンになっているわけで、まさに文化、つまり人の生き様が変化・変質するところまで来ている。そうした中にあって、漁法も含めて、太地町の人達が頑として変わらない、日本の捕鯨産業が変わらないことに対して、海外の活動家たちは不思議で仕方ないのでしょう。

・あとですね、自分でも文化とはいいましたが、意外とその歴史は浅いという点についても認識を改める必要がありました。別に、歴史が浅いから文化として認識できないとか、そういう話はしてません。ただ、自分の史実認識に不足があったことを認めているだけです。

・まず、鯨食自体は、縄文時代からみられたものですが、人口に膾炙するものであったのは、第二次世界大戦後のわずかな期間だけである、という点です。著者は、鯨肉の消費量がこれまでいかに少なくあり続けたかということと、日本人はむしろ犬の肉を食べていた期間/頻度の方が長い/高いという論拠を持ち出して、「鯨食のみを持って捕鯨文化を語るならば、犬食についても語らなくてはならないだろう」と主張します。確かに、さっきも書きましたけど、追い込み漁そのものも1970年代から始まったものなんですね。

・もう一つの論点である、動物の「痛み」「苦しみ」については、また日を改めて追記します。

・余談ですけど、この本を読んでいる間、これまで自分がテキストとして読み込んだBergerや、趣味で読んでいた佐々木芽生の「おクジラさま ふたつの正義の物語」、また直接お会いしてお話する機会に恵まれた川端裕人氏の著書が引用されていて、これまでの勉強が生き生きと頭に蘇りました。やっぱり、勉強は楽しいですね。

・あ、もちろん本書では、動物園に関する考察も、まるまる一章分くらい割かれていました。これについても絶対に記事にしたいと思っています。

勉強の進捗について

「勉強の進捗について」とのタイトルで約2年ぶりにブログを書き始めましたが、特段の進捗はありません。社会人(会社人)と並行して個人的な勉強をするのが、これほど困難とは。もちろん、自分の怠惰のせいもあるんでしょうが…。

動物や、動物園への興味は衰えていません。むしろ、拡大している気がする。これはやはり、社会に出て視野が広がったことの効能でしょうか、物事は何でも裏表ということですね…。

2年の間に、いくつか新しく動物園を訪れました。天王寺動物園、神戸市王子動物園和歌山県太地町のくじらの博物館、北九州の到津遊園。天王寺にはナイトズーも含めて3回ほど、訪れました。文献は、正直あまり当たっていません。一般書ですら、フランス・ド・ヴァールの「Are We Smart Enough To Know How Smart Animals Are?」(邦題:『動物の賢さが分かるほど人間は賢いのか』)を読みかけている程度。ただし、直近では、佐々木 芽生の「おクジラさま ふたつの正義の物語」、それから動物とは少し離れますが、 ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を熱量を持って読み進めています。

以前と比べて、動物園や展示のテクニカルな話題ではなく、動物そのものについて、基本的な知識を得ようとしているのだと思います。その意味で、小宮輝之の「くらべてわかる哺乳類」などは大変面白かった。なにせ、日本でみられるすべての哺乳類が網羅されていますから。反対に、最近、上野科学博物館で催されていた「大哺乳類展2」は、やや期待外れでした(そもそも、1が開催されていたことを知らなかった…)。展示の仕方を含め、発信されているメッセージがあまり伝わって来ず、ただたくさんの標本に圧倒されるだけで終わってしまいました。

標本で思い出すのは、滋賀県立琵琶湖博物館です。琵琶湖にまつわる生態系をすべて紹介してやろうという熱意が、優れた展示デザインでもってまっすぐに伝わってくる大変面白い博物館でしたが、何よりも、動物標本の製作工程をビデオで伝えているのが強く印象に残ったのです。標本製作は、ある種動物の生死とダイレクトに向き合う営みだと、モグラの皮はぎを見ながら思い知らされました。また、標本製作業界という大変ニッチな世界があるということそのものも、考えてみれば当然ながら大変新鮮でした。

 

動物園に立ち返ると、この2年間で最も大きなニュースは、千葉市動物公園が園長を民間公募し始めたことではないでしょうか(日本政府によるIWC脱退も、色々な意味で大きなニュースですが、政治的な思惑も絡んで、自分にはうまくコメントできません)。もともと、レッサーパンダ風太で有名になるくらいですから、マーケティング人材には事欠かないのではと思っていたほか、園長はこのブログでも過去に触れた石田おさむ(漢字表記は他ソースをご確認ください)氏ですし、動物や動物園文化への理解が日本で最も進んでいる動物園だと思っていましたが、リスタート宣言も含めて、色々とうまく回っていないのでしょうか。

園長交代について、邪推をめぐらせることは可能ですが、最も好ましいシナリオは、マーケティングやコスト、企画調整など、経営に係る判断を新しい園長に任せ、動物園としてのフィロソフィーを石田氏ないしは他の幹部が磨きこむ、といったあたりでしょうか。単純に、商業的意識を高める(いわゆる、「民間の風を吹き込む」というような、その場しのぎの意識改革)ために新園長を民間公募したのでなければ良いなと思いますが、募集要項だけを読むとそんな気がしないでもない…。すなわち、「集客力の向上」「おもてなし」といったワードが散見されるばかりで、動物園が社会に対してどんなメッセージを発信していくのか、動物を飼育展示することに対してどんなスタンスを取っていくのかといった経営の根幹についての言及がありません。

さらに、報道を確認すると、応募者の大半が動物園園長・水族館館長経験者で、残りは宿泊業・旅行業関係者、かつ、ほとんどが50代以上の男性。結局、内輪で人間が回っただけでは?と突っ込みを入れたくなるほか、既存の企業経営の枠組みを動物園に当て込むだけで、特段新たなイデオロギーを持った動物園など生まれなさそうな匂いがしていますが、これは傍目八目というものでしょうか。

www.nikkei.com

(ちなみに、現時点で千葉市HPでの募集要項はすでに削除されています。)

 

話は全く変わって、最近は日本の経済・産業にマクロな視点から広く携わっていることもあって、これまでとは違う視点から動物に興味が出ています。その内容については、後日追記をします。

 

 

メナジェリーに行ってきました

タイトルが(略)。

フランス、パリはメナジェリーに足を運んできました。本当はパリ近郊にもう一つより近代的な動物園があるのですが、今回の目的はフランス観光だったためさすがにそっちに行くのは控えました。一回の海外旅行で二つ動物園に行ったらさすがに意味がわからんから。行きたかったけど。

創設そのものは18世紀終わりと、近代もしくは前近代的な動物園としてはウィーンのシェーンブルンに続いて古いわけですが、園内はもちろん長年に渡って改装されており、めちゃめちゃに新しいわけでもなければボロボロに古いわけでもないという不思議な印象を受けました。日本でもよくバブル期に建てられたリゾート地が中途半端に改装されて今も残っているというのを見かけますが、それに近いような感覚で、物持ちの良いヨーロッパではある意味珍しいのかもしれない。

園内の目玉はオランウータン含む霊長類舎のようです。ここは比較的新しい獣舎で、デザインなどから判断するに勘ですが1990年代ごろに建てられたものではないかと思います。屋内に入っていくタイプの展示で、中からガラス越しに動物を観察します。この建物内は大きな楕円形をなしており、ぐるりと回りながら様々な種類の霊長類を見てゆく形になります。中央には霊長類に関する主に子供向けの情報コーナーが設置され、全体的に図書館や博物館のようなアカデミックな雰囲気が漂う展示施設となっていました。建物の構造、見せ方としては多摩動物公園のチンパンジー舎、もしくは京都市動物園のゴリラ舎に近いと思います。もちろんどっちがどっちを模倣したのかはアレですけど。

まず僕が注目したのは屋内展示に入る際のエントランスにかけられた2m四方ほどのサインボードです。僕はフランス語はほとんど読めませんが、なけなしの知識を寄せ集めて判断するに、霊長類がもついくつかの特徴について分かりやすくかつ端的に紹介してたと思います。タイトルはずばり「霊長類とは何か」でしたし。こういう解説って日本の動物園には少ないと思うんです。個々の動物に関してサインボードを並べ立てて、細かい文字で辞典的に動物の食性なんかを紹介するにとどまっている気がします。もしくは動物がその動物園の”ファミリー”であることを強調して、「○月○日がなんとかちゃんの誕生日!」みたいな、はっきり言ってどうでもいい標識とかね。文句言ってるとかではなく。いや、これに関してはちょっとディスり入ってるわ。

サインに関していえばほかの動物についてもいちいち分かりやすく、かつ興味を引くようなものになっていたと思います。まずほとんどすべての動物について、美しい水彩画が看板に印刷され、動物の持つ特徴、自然下でどのような暮らしを営んでいるのかなどが端的に文章で表されていきます。それらはまさに僕たち来園者が動物に関して知りたいことであり、まだ字の読めない子供に親が標識を読んであげながらも自分も納得するという場面にも出くわしました。

もう一つ印象に残った展示は爬虫類舎でしょうか。こちらは他の獣舎と比較してかなり年季が入っており、基本的な構造は18世紀当時から変わっていないのではと思わされるほどでした。爬虫類用に気温湿度がともにかなり高く保たれていたので、空調などはそこまで古くはないのでしょうが。こちらも屋内の展示で、中に入ると自分をぐるりと取り囲む種々の爬虫類を観察することになります。それは当時西欧諸国の蒐集趣味の残り香を目の当たりにするようで、これぞまさにメナジェリー、と背筋がひやっとしたのが印象的でした。坂口安吾がエッセイか何かに、「日本人は何かに固執することのない文化を持っている」というようなことを書いていた覚えがありますが、その意味でまさに西欧と日本の文化の違いを見たような気がします。あそこまで熱心に自然を観察下・保護下に置こうとする姿勢は日本のどの動物園にも見られないと思います。

 

ということでせっかく行ったので取り急ぎ動物園のまとめをしました。これ以降は最近の興味関心について。

少し前から勁草書房の『生物学の哲学入門』、それから河出出版の『ゾウがすすり泣くとき』を個人的な関心で読んでいます。前者では「進化は偶然なのか」、後者では「動物に感情はあるか」(そもそも感情とは何なのか、分かりませんが)という関心が自分を支配しており、どちらにも共通するのは「動物と人間は何が違うのか(そもそも違いはあるのか)」といったことだと思います。去年・一昨年から研究まがいのことをやってきて、どうもこのあたりに自分の根本的な問題意識があるのではないかと疑っています。なんにせよ、これからも勉強を続けられたら幸いですね。

ということで今回はこのへんで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近の研究について

約一年ぶりの更新です。

今年に入ってから諸事情により研究を中断していましたが、夏ごろから去年よりもはるかに緩やかなペースで研究を再開しています。誤解を恐れずいうならば、趣味。

ところが今年に入ってからの研究は動物園ではなく、動物愛護の歴史に関する研究となっています。これは自分の研究ではなく、他の研究者の方の調査を手伝うというかたちで勉強を再開したからです。

ブログタイトル詐欺ですが、いつかは自分の問題意識である動物園に戻ってくるでしょう。確証はないけど。他流試合も大事みたいな、そんな感覚で研究を進めています。

また去年よりも歴史的研究の側面が強くなっています。去年のは研究というか、文献を読んで感じたことを垂れ流してそれを論文らしくまとめましたみたいな、金メダルチョコみたいな絶妙な安っぽさがありました。

でも僕はそういうやり方も好きです。当面はきちんとした人文学研究者になる予定(なれる予定)もなさそうなので、アカデミズムに縛られず自分の意見をお手軽に発信したいから。させてください。

 

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さて当の研究に関してですが、論点がまったく散乱しています。日本において動物愛護団体が初めて設立(団体名は「動物虐待防止会」)された1902年から現在に至るまで、日本で展開された動物保護・愛護に関する議論は特に日本国内でまだまだ研究が手つかずで、それゆえ多くの含意・研究可能性を内包しています。またその事実を諸外国から批判される向きもあります。

 

zshio3721.hatenablog.com

 

ですから、きちんとした研究が待たれる分野でもあるので、そのお手伝いができることは少なからず嬉しいことです。

というわけで今回は、今年と去年の橋渡しということで、動物愛護と動物園に共通する論点を取り上げたいと思います。

 

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西欧と日本という区分があるとしたら、動物を捉える視点・視座が異なるというのが動物園研究で暗示的に言いたかったことでした。この考えは動物愛護に関しても同様ではないでしょうか。

初期の動物愛護運動、詳細は省きますがたとえば1914年に設立された日本人道会の主な活動は包括していえば「目の前の動物を助ける」というものでした。具体的には係留した野犬の安楽死援助、係留所の環境改善、給水槽の設置など。そしてこれらの活動は主に日本に住む外国人女性(駐日大使の妻など)によって行われました。つまりこれは動物にある種の感情移入をして、かわいそうだと思って助けるという直観が根底にあるのだと思います。

この時点でこういった活動は、人間と分断された動物という対象が前提とされているというのは疑いがないと思います。人間と動物、主と客が分離していなければ対象に感情移入するということは不可能です。

 

これに対し、日本人によって展開される愛護運動にはこうしたはっきりとした主客分離が認められないような気がするのです。

1902年、広井辰太郎が中心となって発足した動物虐待防止会は当初から、わかりやすい動物保護運動も展開していたようですが(牛馬給水槽の設置など)、一方で各種雑誌上で様々な議論を部外者とたたかわせていました。その中で、広井に一貫して認められるのが利己主義的な態度です。肉食は人類にとって必要なものであるからこれを否定はしない。動物虐待を動物の問題ではなく人間社会の問題ととらえている。

第二次世界大戦後の1955年、ほとんど日本人だけで日本動物愛護協会が発足しますが(正確には日本動物福祉協会を独立させて事実上の再発足)、その際も代表である斎藤弘吉が唱えるのは動物愛護教育の重要性です。

つまり、日本人にとっては動物愛護問題はどこまでいっても人間自身の問題なのです。日本人の動物愛護意識に、愛護対象としての客観的な動物はあまり登場しない。

 

「動物がかわいそうだから助ける」というモットーはおそらく日本人のマインドにどこかひっかかりを残すのではないでしょうか。

 

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 僕が去年、動物園研究でこうした「日本人的な動物観」を体現しているとして取り上げた旭山動物園園長の坂東さんの態度に共通するような話です。猟銃持ってる園長って。

 

ということで久々の更新、結論を急ぎましたがこんな感じです。

動物園研究との接点に触れましたが、これからの動物愛護研究自体はまったく思いもよらない方向に行く可能性のほうが大きいです。

 

  

 

 

 

イルカ猟と水族館問題について

論文がなんとか提出できました。

今回はその内容とからめて、イルカ漁と水族館問題を取り上げたいと思います。動物園じゃないけど。

まずは問題の背景を整理します。2015年4月22日に世界動物園水族館協会(WAZA)が日本動物園水族館協会(JAZA)の協会員資格を停止すると発表したところからこの話は始まります。

この決定はJAZAに所属するいくつかの動物園および水族館がイルカの追い込み漁によって生け捕りにされたイルカを飼育しているという事実を根拠にしたものです。ちなみにこの漁法はアカデミー賞受賞映画である「ザ・コーブ」などで非人道的であるとしてとりあげられていた、いわば“悪名高い”もので、主に和歌山県太地町で伝統的に行われています。

この決定に対して、最終的にJAZAは、この「非人道的で非選択的な」方法によって捕獲された生物を入手しないという禁止規定のもと、WAZAへの残留を決定しました。かたちとしてはWAZAの要求に一方的に降伏したことになります。

JAZAが協会内でどのような過程を経てこの決定に至ったのか、あるいは何がWAZAをここまで突き動かしたのかは詳細に知ることはできませんが(もちろん邪推は可能でしょうが…)、今回の事件がWAZAによる価値観の押し付けであることは明白です。

太地町のイルカ漁はおそらく伝統文化です。文化とは何か、伝統とは何かと聞かれてもばしっと答えることはできませんが、イルカ漁とともに生き、暮らしてゆく人々がいることは確実です。イルカ漁によるイルカ飼育を禁止し、イルカ漁の文化を“倫理”の観点から否定することは、この漁とともに生きる人々の暮らしを間接的にも直接的にも否定することです。

そもそもなぜ、この漁が残酷と言えるのか。その前提として、動物が痛みを感じるとはどういうことなのか(この場合の痛みとは漁による直接的なものはもちろん、心理面や飼育期間におけるストレスなど間接的なものも含みます)。このあたりまではWAZAもさすがに議論の準備があるでしょう。しかしながら、動物が人間である“自分と同じように”痛みを感じるとはどういうことなのか、なぜそのように言えるのか、動物が痛みを感じることと人間が漁をやめなくてはいけない理由はどうつながるのか、というところまで果たしてWAZA側に一定の答えが用意されているでしょうか。

このような議論とそれに伴うはっきりとした意思表示無しに、動物種の多様性を認めても人間文化の多様性を認めないというWAZAの意向に、どれだけ意味があるでしょうか。なぜこの漁は、グローバルスタンダードで否定されなくてはならなかったのでしょうか。

このあたりに、人間と動物の関係における西欧と日本の考えの違いがあるように思われます。それらの考察については次回以降。

動物観学会に行ってきました

教授に誘って頂いて、2015年の動物観研究会のカンファレンスにお邪魔してきました。

会は二部構成で、後半の総合討論には旭山の坂東園長をはじめとしてデザイナーの若生さん、小説家の川端裕人さんらの議論を千葉市動物公園の石田おさむさんが司会するというなんとも豪華な場でした。
 
このような場で、文献をあたっているだけではなかなかわからなかったことがいくつも見えてきました。
 
まず一つ目。ズーラシアの村田園長が提唱する動物園学と日本の動物園における展示の変遷にはあまり関係がなさそうだということ。てっきり動物園学の推進者と若生さんらはかなり親交があるのかと思っていましたがご本人から伺った限りそこまでではなさそうです。
二つ目。これは有名なことかもしれませんが、動物園水族館協会も一枚岩ではないということ。先のイルカ漁問題を巡って協会内も錯綜したようで、このへんは意外でした。
三つ目。石田さんは人文科学のご出身、中でも哲学畑だそうで、抽象的な議論が非常にお得意でいらっしゃること。動物園長といえば獣医だと思い込んでおりました。混み入った議論を見事にリードされていて、素晴らしい方だなと感じました。
 
さて以上が主に人間関係というか所感ですが、ここから実際の議論の内容に触れていきたいと思います。
 
今回の総合討論では大きな収穫がありました。
まず、生息環境展示と行動展示はそもそも方向性が違うということ。一見、この2つの展示のゴールは同じに見えるから厄介ですが、実は違うというのが僕の考えです。この辺は若生さんと坂東さん、お二人の動物観を考えてみれば分かるかと思います。
 
まず若生さんのゴールはどこまでいっても「自然保護」です。自然に対する畏敬の念を養うと銘打ってはいますが、そのような気持ちを養うことによって最終的には自然保護、環境保全という目的を達成しようとしています。これを自然保護的な動物観とでも呼びましょうか。
 
これに対し、坂東さんのゴールは動物の素晴らしさを感じてもらうこと、それだけです。彼に根付いているのはいわゆる共生的な動物観です。つまり、生も死も動物とともにし、伴侶や観察対象としてではなく、生活の一部として動物と関わっていくといういわば前近代的な動物観です。そこには環境を保護しようだとか動物を守ろうだといった邪推は全く含まれていません。
 
このような考えの根拠として、二つあげたいと思います。まず、彼が猟銃免許を所持し毎年北海道の鹿を駆除していること。普通であれば動物の命を預かる園長という人間が動物を殺しているということには抵抗や批判があるはずです(実際批判されることもあるそうです)。しかしながら彼の中では彼の肩書と行為は矛盾していない。動物園園長という人間だからこそ動物と真摯に対等に向き合うためにその死に直面し共生する。これは彼にとって当たり前のことです。もう一つは旭山動物園で飼育動物が亡くなった場合はその事実を逐一園内に告知すること。このようなかたちで、動物園全体で、動物の死とも向き合うという誠実な姿勢を体現しているわけです。
 
一見、動物園の商業的側面を否定しているという点で共通しているように見えるお二人ですが、これが二人共通の着地点かと言われるとそうではない。そこはあくまで二人が避けている点であって、目指す点はそれぞれ違うわけです。ここについて川端さんは「二人は異なる舞台を作っている」と表現されておりなるほどなと感じましたが、舞台で表現したいこともまた異なっていると僕は考えるわけです。
 
やはり動物園展示は一枚岩ではありませんでした。誰も彼もが、環境保護や種の保存を最後のゴールとしているわけではない。これが今回の大きな収穫です。
 
一つ面白いのは、彼ら二人のバックグラウンドに着目してみることです。かたやデザイナーで、世界を見てきた造園家。一方は園長で、北海道の自然に溶け込んでいる。このような観点から論点を掘り起こすのも面白いかもしれません。
 
しかしながら坂東園長はなんというか、カッコよかった。いかにも今、旭山の大自然から出てきたというような風貌で、振る舞いにある種の涼しさを感じました。またひとたび話し始めると、抑制の効いた話し方ながら情熱的で、その主張は論理的でぶれることがない。動物園長として、また人間としてすっかり尊敬してしまいました。
 
そろそろ論文を本格的に書かなければなりません。これまでの内容をしっかりとまとめたいと思います。